沖縄より
沖縄についての感想ありがうございます。
島田知事については、「島守人」としての慰霊塔が摩文仁ケ丘に建立されています。
最期は、摩文仁の東方か喜屋武岬の洞窟だともいわれ確証が有りません。
沖縄戦については、当初32軍が編成されたときには、陸軍と海軍根拠隊が県民共々に陣地構築にあたっていました。
しかしながら、19年10月頃から現地の実情を考慮せずに大本営や参謀本部が編成替えをした為に混乱を来たせました。
守備軍の減少は現地を不安に陥れたと考えられます。特に、金沢9師団や後の熊本6師団抽出が傷手でした。本土決戦の前哨戦は沖縄か、台湾か、比島かといったところで判断を誤ったと思います。
海軍根拠隊だけが減少しながらも現地の県民共々に構築したいみたいです。
32軍の牛島司令官、長参謀長以下、62師団藤岡中将、24師団雨宮中将、海軍根拠隊太田少将等が中心となっています。
牛島中将の最期は摩文仁、太田中将は豊見城小禄、藤岡中将は摩文仁、雨宮中将が糸満宇江城等です。
以下、現地前線部隊と県民、ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊等との間に混乱を生じ、軍が最優先となったところと、最後まで県民を守ったところがあったことと考えられます。
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