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Posted by 滋賀咲くブログ at

2009年04月03日

沖縄その三・海洋総合大学創立運動にて

沖縄国際海洋博覧会が昭和50年7月から6ヶ月間にわたって開催された。

ここ、名護市本部半島で開催され、その跡地は国営沖縄記念公園となり、「美ら海水族館」や記念公園となっています。





















はるか、伊江島を望む。

この海洋博は、昭和47年に沖縄が祖国に復帰したことを記念した博覧会と言われています。

と同時に、将来この跡地をどうするかとの議論も有りました。

それが、「国立沖縄国際海洋総合大学創立」誘致に関する運動でした。

当時、国際的に海洋法の問題で、領海200マイル等の論議もありましたが、

それに関しての食糧問題、海洋開発問題がクローズアップされました。

それを基礎に、海洋博を国際的なお祭りに終わらせることなく海洋文化のメッカとして

沖縄に国立沖縄国際海洋総合大学を創立させる運動が始まりました。

正に、沖縄は「万国津梁の鐘」の銘文にある様に

「琉球は南海の勝地にして
…云々」なのです。

代表世話人には、大山朝常先生(元コザ市長)が就任され、

関西からは坪井一夫先生が代表となって運動を展開されました。

いずれも故人となられましたが、今でも当時活動した

沖縄の有志・学生達が何らかの運動を展開しています。

 

















故坪井一夫先生を偲んで、集まった「沖縄もやい」の友人達

海洋博覧会を成功させる為には、跡地を有効利用しようと、世界に冠たる

海洋総合大学を創立しようと集まりました

それと同時に、祖国復帰まもない県下に於いて、戦禍、戦闘で斃れられた方々の遺骨が散乱しているとのことで、

戦没者の遺骨収集をしなければならないと学生達が結集しました。

「青年学生沖縄戦戦没者遺骨収集団」の結成でした。

ときの厚生省は、戦没者の遺骨収集は終わったと言っていましたが、

沖縄中部以南に於いて、特に島尻地区、摩文仁周辺には戦闘状態で

散華されたご遺骨がそのままの状態でした。遺骨を収骨し、ご慰霊しつつ、

平和を希求しようとの活動でした。

平和祈念堂(堂内には山田真山画伯による平和祈念座像が安置)周辺は未整備で、

国立沖縄戦没者墓苑
もなかった頃です。

その様な経過の中で、(財)沖縄協会の方々の大きな支えもありました。

沖縄協会は、昭和49年に設立されましたが、

それまでは、特殊法人「南方同胞援護会」として活動されていました。

昭和31年に設立され、沖縄問題だけでなく、北方領土、小笠原諸島問題までも取り組まれた組織でしたが、

昭和47年5月に解散されました。大浜信泉会長や吉田嗣延専務理事が活躍されました。(いずれも故人)

沖縄県が復帰直後、その様な経緯も有りました。今、米軍基地問題だけが先行していますが、

世にでていない運動が展開されていました



次回、また書き込みます。  


Posted by SPC太郎 at 11:10Comments(0)雑感

2009年03月27日

沖縄その二・摩文仁

黎明の塔


















沖縄戦の組織的戦闘が終了したのが、昭和20年6月23日です。8月15日の終戦の日迄小規模な戦闘はあった様ですが、
実質、6月23日が沖縄の終戦となっています。毎年、この日に摩文仁ヶ丘平和公園で慰霊祭が挙行されています。
ちょうど、この下に沖縄守備隊であった、第32軍司令部が立てこもった洞窟があり、軍司令官である牛島中将、長参謀長他幕僚が自決されたところです。
今は、中に入ることができず、入口は鉄門扉で閉ざされ、慰霊碑が建立されていますが、昭和50年過ぎ頃までは自決ヶ所付近まで入ることができました。
国立戦没者墓苑も平和記念塔も整備途中で、一面原っぱでした。

第32軍の編成は、第24師団・雨宮巽中将、第62師団・藤島武雄中将、海軍陸戦隊(根拠地隊)・大田 実少将、第32軍直轄部隊で編成されていました。
その後、昭和20年になり、米軍上陸に伴い県下の市民、学生等で多くの軍属、奉仕部隊が編成され、最後は鉄血勤皇隊等による戦闘部隊ひめゆり部隊等による第一戦看護部隊の犠牲者がでるこことなったのです。

糸満の大里、伊原、真壁、喜屋武、摩文仁の周辺には様々な慰霊碑、忠魂碑が建立されています。戦友の方、遺族の方、県民・村民が建立されたもの等。

摩文仁ケ丘には、各都道府県の慰霊碑を初め、周辺には沖縄師範健児の塔(沖縄師範学校職員・生徒)、沖縄工業健児の塔(県立工業学校生徒)にみる鉄血勤皇隊の碑山吹の塔(重砲連隊の慰霊碑)、南冥の塔(陸軍航空部隊)、第62師団の慰霊碑(藤岡中将麾下)にみる軍人の碑。伊原の梯悟の塔(62師団に従事した沖縄昭和女学校生徒)、ひめゆりの塔(沖縄師範女学校生徒、県立第1女学校生徒)、第三外科壕の職員の碑等にみる女学生塔の碑。
ちょっと奥まった宇江城の村落の道端には、山雨の塔(第24師団・雨宮中将、第22連隊軍旗奉焼の地)があります。

まだまだ、多くのものがありますが、観光地と戦績跡との狭間が心にしみる地です。

米軍は、慶良間列島から上陸を開始しました。激戦地は首里から那覇周辺に及び最後は南部・島尻方面へ攻め入りました。
嘉数高地や泊港周辺の激戦は彼我共に激戦の中で多くの方が斃れました。

その間、名護の本部半島から一望できる伊江島で住民自決があった様です。

  


Posted by SPC太郎 at 10:10Comments(1)雑感

2009年03月17日

卒業式・角帽の房

=卒 業 式=

Commencement Ceremony

3月の某日、某女子大の卒業式が挙行されました。

厳粛な中に、感動があふれていました。4年間のキャンパスライフを終えて、卒業証書授与式です。

あいまに、フルート演奏で「仰げば尊し」がながれ感無量の方もおいででした。

マントに角帽姿の学生達。





















卒業証書が学長から授与されると、角帽の房を右から左へかけ直します。

引き続き、「聖体賛美と祝福式」が司祭の下に行われ、全員厳かな中に礼拝を行いました。



  


Posted by SPC太郎 at 09:42Comments(0)雑感

2009年02月12日

横浜中華街

横浜中華街

あいかわらず、賑やかな横浜の中華街。
毎年、この時期に総会がこの地で開催されます。
団体の所在地が横浜市の為に全国の会員も集まりやすいからでしょう。



中華街


新横浜駅から根岸線に乗り換え。
    ↓
東横浜から各駅で石川町駅へ。
    ↓
石川町駅・北口から徒歩10分程度。
    ↓
西陽門→延平門をくぐり
    ↓
港中学を右手に見ながら
    ↓
善隣門をくぐり、中華街本通りへ
    ↓
香港路を右折
    ↓
「順海閣本館」


甘栗、シュウマイ、肉まんじゅうの定番から、

中華料理は何でもござれの世界。

*近くには、山下公園や港未来方面の定期船の発着場があります。  


Posted by SPC太郎 at 17:08Comments(0)雑感

2009年02月09日

富士山、絶景

富士山

昨日、横浜へ出張。のぞみから見えた「富士山」は絶景でした。

廊下を歩いていたときに、飛び込んできた景色なので、あわてて携帯で撮影。少し、ピンポケ。
しかし、久しぶりに天候も良かったので、すごい景色でした。
日本人の心ですね。   


Posted by SPC太郎 at 09:12Comments(0)雑感