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Posted by 滋賀咲くブログ at

2009年03月27日

沖縄その二・摩文仁

黎明の塔


















沖縄戦の組織的戦闘が終了したのが、昭和20年6月23日です。8月15日の終戦の日迄小規模な戦闘はあった様ですが、
実質、6月23日が沖縄の終戦となっています。毎年、この日に摩文仁ヶ丘平和公園で慰霊祭が挙行されています。
ちょうど、この下に沖縄守備隊であった、第32軍司令部が立てこもった洞窟があり、軍司令官である牛島中将、長参謀長他幕僚が自決されたところです。
今は、中に入ることができず、入口は鉄門扉で閉ざされ、慰霊碑が建立されていますが、昭和50年過ぎ頃までは自決ヶ所付近まで入ることができました。
国立戦没者墓苑も平和記念塔も整備途中で、一面原っぱでした。

第32軍の編成は、第24師団・雨宮巽中将、第62師団・藤島武雄中将、海軍陸戦隊(根拠地隊)・大田 実少将、第32軍直轄部隊で編成されていました。
その後、昭和20年になり、米軍上陸に伴い県下の市民、学生等で多くの軍属、奉仕部隊が編成され、最後は鉄血勤皇隊等による戦闘部隊ひめゆり部隊等による第一戦看護部隊の犠牲者がでるこことなったのです。

糸満の大里、伊原、真壁、喜屋武、摩文仁の周辺には様々な慰霊碑、忠魂碑が建立されています。戦友の方、遺族の方、県民・村民が建立されたもの等。

摩文仁ケ丘には、各都道府県の慰霊碑を初め、周辺には沖縄師範健児の塔(沖縄師範学校職員・生徒)、沖縄工業健児の塔(県立工業学校生徒)にみる鉄血勤皇隊の碑山吹の塔(重砲連隊の慰霊碑)、南冥の塔(陸軍航空部隊)、第62師団の慰霊碑(藤岡中将麾下)にみる軍人の碑。伊原の梯悟の塔(62師団に従事した沖縄昭和女学校生徒)、ひめゆりの塔(沖縄師範女学校生徒、県立第1女学校生徒)、第三外科壕の職員の碑等にみる女学生塔の碑。
ちょっと奥まった宇江城の村落の道端には、山雨の塔(第24師団・雨宮中将、第22連隊軍旗奉焼の地)があります。

まだまだ、多くのものがありますが、観光地と戦績跡との狭間が心にしみる地です。

米軍は、慶良間列島から上陸を開始しました。激戦地は首里から那覇周辺に及び最後は南部・島尻方面へ攻め入りました。
嘉数高地や泊港周辺の激戦は彼我共に激戦の中で多くの方が斃れました。

その間、名護の本部半島から一望できる伊江島で住民自決があった様です。

  


Posted by SPC太郎 at 10:10Comments(1)雑感