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Posted by 滋賀咲くブログ at

2009年07月20日

馬篭宿・中山道

  中山道「馬篭宿」 

業界の先進地視察で、中部電力・川越発電所を訪問。

川越火力発電所では、燃料にLNG(液化天然ガス)を使用している。

発電所の3号・4号系列はガスタービンと蒸気タービンを組み合わせた

1300度C級コンバインドサイクル発電と云う新しい発電方式…??…??

解説を中止します。ややこしいし、理解してません。

本題に移ります。

中山道・馬篭の枡形辻。

                                     























 道幅の狭い石畳の街道沿いにせせらぎが…。

川上から流れた水を取り入れ水車(右端奥)に利用。
                                               























馬篭宿の建物は、明治28年と大正4年の大火で全焼したらしく

現在の建物は、戦後の「まちづくり」の一環で再現したとのこと。



























整備された石畳。本来は、石畳ではない為に、雨が降ると

ぬかるみ大変だったそうである。

江戸時代の記録では、馬篭の街道は三町三十間(約400m)

だったらしく、この狭い街道沿いに本陣、脇本陣、問屋、旅籠があり、

物資を運んだ人々、京や江戸を目指す庶民、大名行列で混雑していたと云う。








  


Posted by SPC太郎 at 08:29Comments(0)雑感

2009年07月19日

馬篭宿・「夜明け前」藤村

      中山道・馬篭宿






















 

中山道・江戸へ八十里・京へ五十二里

中山道は、69宿場からなりたっており、江戸から妻篭宿を過ぎ

馬篭峠(標高800m余り)を超えると馬篭宿である。

同じ中山道11宿の中、奈良井宿は峠を過ぎると平坦な街並みとなるが

馬篭は山中の登り坂で険しい。しかしながら、江戸と京を結ぶ要衝である為に

人と物資の行き来で繁栄を極めたと云う。

 ここに、本陣、脇本陣、旅籠や物資集積所があつた。

 島崎藤村・「夜明け前」



























夜明け前・「木曽路はすべて山の中にある……」

全4冊(岩波文庫)

 「藤村記念館」島崎藤村は馬篭に本陣を経営し、庄屋も勤めた

裕福な家庭に育った。

 母の実家・島崎家も妻篭宿の本陣を営んでいた。

その後、東京に移り住むが、小説「夜明け前」は、父をモデルにした

とも云われている。

 主人公・青山半蔵は裕福な家庭の中で父から国学の素養を学び影響を受ける。

当時の徳川・武士社会に疑念を抱き始め、社会の矛盾に対して平田学派による王政復古の

夢を見る。

 幕末の動乱は明治維新となり、変革された世は王政復古で迎えられると確信しつつ、啓蒙を続ける。

 しかしながら、明治維新が終われば西洋の近代化の波の中、中山道が廃止され、

新道は木曽川沿いとなり馬篭、妻篭等の宿場街は没落の一途を辿り、貧困社会をまねくこととなつた。

 また、本陣、庄屋として地域に貢献し、維新に理解したことも無視され、人心は離れてしまう。

 主人公・青山半蔵は維新は何だったのか、近代社会とは何かと悶々たる日をおくりつつ、精神に異常を来し、

一族に座敷牢に押し込められてしまう。最後には、座敷牢にて狂死する。

  
馬篭からの眺望・山中である
    


Posted by SPC太郎 at 16:15Comments(0)雑感

2009年07月02日

復元機

艦上爆撃機「彗星」

彗星一二型:所属・第523海軍航空隊


























 
 於・「遊就館」

この機体は、昭和47年にカロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングル

で発見されたものを復元したものである。 

 尾翼に「鷹-13」とあり、所属は第523海軍航空隊らしく、主にソロモン海戦

マリアナ諸島海戦、レイテ沖海戦で活躍した。

 高速艦上爆撃機で単発復座で、後方に旋回13㎜機銃が設置されている。

 爆装:胴体下・250㎏~500㎏×1 or 翼下・30㎏~60㎏×2

 航続距離:1400㌔~2200㌔
      


Posted by SPC太郎 at 09:08Comments(0)雑感

2009年06月30日

パール博士

ラダ・ビノード・パール博士

紀尾井町での二日間に渡る会議が終わり

少し時間ができたので、タクシーで車窓の旅。

九段に向かったところで靖国神社へ参拝。


 






















写真左側が「パール博士」。


インド出身のパール博士は、1946年~48年の極東軍事裁判の

判事を勤めた。

所謂、東京軍事裁判で我が国が敗戦したのを機に、その侵略性を

裁こうとした国際裁判。

しかしながら、パール博士は「侵略とは、本来過去に欧米列強がアジアに侵攻し、

各地を侵略、植民地化したことを云うべきで日本だけを侵略国として裁くのは

法の真理に背くと、日本無罪論を主張」した事で有名。

11人の判事の中で1人だけで反対された。

東京裁判が切っ掛けで、戦後の自虐史観が成り立っているとも云われる。

最近では、公共放送で有るべき、NHKまでが「アジアの一等国のシリーズ

番組」で日本の統治時代に於ける台湾を取り上げ歴史を歪曲、偏向した放送

をした事に台湾人を含めての集団訴訟にまでなっている。

台湾で、侵略戦争があったごとく取り上げ、「日台戦争」と云う造語まで屈指して

歪曲した放送をし、公共放送としての責務を失なっている。(4月5日放送)

写真右側は、「海防艦の碑」。

戦艦、巡洋艦型ではなく、近海、沿岸の護衛用の艦艇で、我が国の

沿岸防衛にあたっていた。

 

























天気もよく、大勢の人がお参りにこられていた。

境内は、御霊祭が7月に催されるとのことで、提灯や飾り物の準備で

賑やかでした。

近現代史を知るには、境内に「遊就館」があるので、是非見学を。




  


Posted by SPC太郎 at 09:02Comments(0)雑感

2009年06月29日

赤坂から紀尾井町

近江彦根藩・中屋敷跡























Hニューオータニの正面玄関右側に庭園に行く散策路があります。

そこに、彦根藩・中屋敷跡の碑が建っています。

中屋敷の敷地だけでもこの広さ。

 
























近江彦根藩・井伊家中屋敷跡
  
 譜代大名の筆頭

 *紀尾井町、ホテル・ニューオータニの敷地

尾張名古屋藩・尾張徳川家

 御三家

 *紀尾井町~上知大学あたり

紀州和歌山藩・紀州徳川家

 御三家

 *赤坂プリンスホテル~弁慶橋あたり

この三藩の名称から「紀尾井町」と名付けられた。

ちなみに、紀尾井坂の公園内には、明治維新の立役者

「大久保利通」が暗殺されたときの、受難の碑が建立されている。

 
























赤坂プリンスホテル旧館

厳かな中に、気品が漂っている。宿泊する身分ではないので、

記念撮影だけ。左てには、本館があり、奥の紀尾井町側には

新館が聳えている。

赤坂見付けから、東京メトロの永田町駅を通りこしたところ。



  


Posted by SPC太郎 at 17:40Comments(0)雑感